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この映画のあらすじを簡単に定義するとこうなる(、と思う)。
「人々が自らの生を確認するため」の「作られた戦争」で、 「大人になれない子供たち、キルドレ」が戦い、 生の価値を見出していく。 なんだか、色々と突発的ではないだろうか。 これだけならはっきり言って「なんのことやら…」である。 いや、突発的でも構わない。 アニメや漫画といったものは、 そういった奇抜なものやファンタジックなものを イマジネーションの世界で成り立たせるものなのだから。 私が納得いかないのは、 この設定に、まず何故なのか、という説明が作中にほとんどないことである。 鑑賞者は、この設定を当たり前のものとしてストーリーを咀嚼する必要がある。 それこそがオシイズムであり、世界的に有名なアニメ監督の作品を 鑑賞する私たちは、そういったことを事前に情報を仕入れ、設定の矛盾や不自然な部分に 目を瞑って鑑賞するべきなのかもしれない。 そういった世界・ベースの上に成り立ち、発展するストーリーにこそ目を向けるべきなのかもしれない。 しかし、である。 押井監督が目指したこの映画の柱、「若者に伝えたいこと」は一体なんであったのだろうか。 スカイ・クロラに出てくる登場人物は、 (多くの登場人物が大人にならない子供「キルドレ」であるが故なのか、) どこか空虚でもやもやとしている。 これが現代の日本の若者とよく似ている、あるいは象徴しているなどと 多くの人々に評されている。(実際に、私もそういう意図であると思う。) その空虚なキルドレである主人公にもまあ色々あって、最後のシーンにて 「毎日同じ風景、同じ感覚… だが一日、一日は確実に少しずつ異なる…」といったことを心の中でつぶやき、 彼の何らかの変化、あるいは成長を観客に見せるシーンがある。 私は、これを監督の伝えたいメッセージだと受け取った。 端的に言うと「つまらない日常でも生きろ、 作られた存在だって頑張ってるんだから頑張れよ、と」、ということなのだろうと。 監督の言いたいこと自体は、わかるのだ。 加瀬亮の落ち着いた声で、あのセリフを言われると、 私にもグッとくるものだってあった。 しかし、この「メッセージ」を現代の若者に伝えたいとして、そのアプローチの方法ががあまりにも、まずくないだろうか。 何故、もっとわかりやすくできなかったのだろうか。 監督曰く、スカイ・クロラは「地に足のついた作品」、だという。 それは確かに攻殻機動隊やイノセンスに比べれば、の話だ。 (森博嗣の原作がそもそも、という反論もあるだろうが) 映画界全体を見渡して見れば全く地に足などついていないと感じた。 そんな「地に足のついてない作品」は、なんだか「キルドレ」っぽいのである。 そして私が思うに、この映画のやり方を評価する若者、というのは 皮肉にも、どちらかというと「キルドレ」側の人々、なのではないかと思う。 このストーリーの前提である キルドレ達の持つ空虚さ、虚しさの理由や動機が、どうにも曖昧で、 世界観のあやふやさ、説得力のなさが「スカイ・クロラ」にはどうしても存在する。 空虚であるという感情も、設定なのである。 だから、登場人物の空虚さに共感ができない。 それを「押井監督だから」と納得してしまったり、 設定を先読みして知っておいたり。 それって、内輪だけで盛り上がって、 他者とのコミュニケーションを拒絶する―なんて紋切型に 揶揄される若者の姿そのものなのではないだろうか? そこで「わかんねーよ」と言える人こそが、 監督の言う、他人の人生に介入できる人であると、私は思う。 いい映画か、悪い映画か、という評価はひとまずおいておいて、 そんなことを感じた映画でした。 テーマ:映画★★★★★レビュー - ジャンル:映画 |
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